たとえば自分が女であったなら、おれはこんなひどい人間ではなかっただろう。
たとえば自分が男ではなかったら、おれはここまで悩まなかっただろう。

たとえば、あの時おれたちが出会っていなければ、きっと今ごろおれはもっと気楽に人生を楽しみながら生きていたかもしれない。


・・・なんて。今さらこんな事を考えたところで、過去は変わらないし、変えられない。だから、おれたちの関係はこんなにもいびつで、ひどく脆いのだろう。







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1.Out line






夢をみた。懐かしい夢だった。
けれども、それは少しも面白いものではなく、悪夢とはいえないまでも、それは確かにおれを現実に引き戻すひきがねとなってくれた。寝覚めはすこぶる悪かった。
それもこれもあの男のせいだ。

眠る直前に、あの男のひどく優しい声を聴いたから。


」、と夢うつつのおれの名前を呼ぶと、「昼ご飯は机の上、夜ご飯は冷蔵庫の中だから」と言い置いて、現在同居中のあの男は出て行った。
あいつはこれから1週間近く帰ってこない。詳しくは聞いてないし、聞いたところで門外漢なおれには解らないため、聞く気もないのだが、おそらくはチームの合宿だろう。
仕事の仕上げに入っていたため、おれが眠ったのは明け方で、枕もとの時計を見るとちょうど昼前を指していた。窓からの陽光も既にまぶしいほどで、そこでやっとおれはもぞもぞとベッドから這い出した。
ダイニングにむかうと、ラップの掛けられた皿が何枚か並べてあり、その隣には新聞がきっちり机に対して直角に置かれていた。牛乳を出そうと冷蔵庫を開けると、タッパーのひとつひとつにメモが貼ってあり、内容物の説明と調理法が書かれていた。几帳面なあの男らしい。なにげなく新聞の日付を見て、ああ、と納得する。

(あの男―――、渋沢と出会ってから・・・もう10年も経つ、のか・・・そりゃ、あんな夢も見るワケだ)



渋沢と出会ったのは、ちょうど10年前の春。高校生として武蔵森学園高等部におれが入学したときのこと。
武蔵森は文武両道を校訓に掲げている名門私立校で、なにか特殊な事情があれば別としてだが、全ての生徒に部活動への入部を義務付けている。なかでも全国のアスリートをスカウトして来てまで作られた運動部はまさに凄いとしか言い様がなかった。
だがおれは、学力特待生として武蔵森に入部したため、クラブに名を貸す程度の入部はしても、積極的に練習に出たりなどということはしなかった。大会や試合などにも選手として出たことは一度もない。
そんな渋沢とおれとの接点というと―――いま思えばものすごい確率なのだが―――運動部に所属していて、自宅からの通学が不可能な者には運動部専用寮というものに入ることができるのだが、なんとそこで同室になったというわけだ。
おれの実家は都内にあり、別に通えないわけではなかったのだが、そのころは両親のおかげ―――もちろん皮肉だ―――で、家庭内の雰囲気がすこぶる悪く、またおれはそんな彼らに早々に愛想を尽かしていたため、特待生として家に負担をかけないのを条件に高校3年間の放任という権利を得たのだった。

今日、みたのはそのころの夢。

内容を思い出そうとすればするほど頭を掻き毟りたいほどの衝動に駆られた。
それもこれもあの男の所為だと、呟くと、ダイニングテーブルの上にあったタバコのケースを掴む。中から最後の1本を取り出して銜えると、吸うため自分の部屋に向かおうと立ち上がる。
するとケースにこれまたよく見知った男の字で書かれたメモが貼ってあるのに気付いた。


『ほどほどにしておけよ』、とだけ書かれたメモにあの男らしいと苦笑して、ふと思いつく。このタバコは昨日の昼にすぐそこのコンビニでカートンで買ってきたもので、仕事の進みがいいときにはタバコの存在すら忘れて没頭するため、吸ってはいない。封を開けた記憶すらない。
つまり、だから。

あれから1日しかたってない今、既に残り1本になっているなどありえないのだ。もちろんプロのアスリートとして活躍している男がタバコなど吸うわけもなく、となると答えはひとつだった。

「あ、あのやろう・・・!」


(―――タバコ、隠しやがったなぁ〜〜〜〜っ!!)


慌ててカートンの残りのタバコも確認しに棚を開けるが、そこには箱の1つも残っていなかった。ただ、代わりにメモが1枚置かれているだけで。

『ほどほどにしておけと、言っただろう?』

これまた男にしては緻密な字によってつづられたその1文は、心底おれの体を心配してのものなのだろうが、いまは逆撫でする以外の何物にもならなかった。

あの男は、ずっとそうだ。
10年前、出会ったときからずっとおれのことを10歳のガキかそこらのように見ている気がする。
―――いや、実際そうなのかもしれない。20代も後半になったような男のおれが、いまだに寝食の面倒を見られて体の心配までされているのだから。
―――だが、あの男はきっと気付いていないだろう。体が資本のスポーツ選手であるあの男のいる前でタバコを吸うことは、なるべくだがしないし、灰皿など自分の部屋にしか置いていない・・・それはもちろん、おれがあの男のことを気遣って自発的にしていることなのだということは、本人が一番気付いちゃいまい。



あの男が好きだ。

・・・という箸にも棒にもかからないこの思いを、ハッキリと恋であると自覚したのは高校の終わりごろだけれども、本当は出会ったときから、あの男のことをしっかり意識はしていた。ただ、それが何であるのかを認めなかっただけで。
おかげでおれの青春時代はぼろぼろだった。
まさか自分よりも一回り以上でかくて男らしさの代名詞のような男に恋をしたあげく、そんな相手に言えない想いを秘めたまま10年以上も一緒に暮らしている、なんてこれはどこの笑い話か。しかもタチの悪いことに、それは思春期にありがちな過ちというには根が深すぎて、そんな懐かしくも苦い想いを何かの拍子に思い出しては、自己嫌悪に陥るのなんて日常茶飯事のことだった。

あのころのおれは、まだ恋のハウツーもノウハウも全然理解していないケツの青い青いガキでしかなく、ただいっちょまえに同性に―――しかもそれは友人で―――そんな人間に恋心を抱いてしまったことに後ろめたさのようなものは感じていた。
ただ、思春期にありがちな過ちということで一過性のものだろうと高を括ってみたものの、想いは薄れるどころか濃く強くなっていくばかりで、さすがにこのままじゃやばいだろうと、高校卒業を機にあの男から離れようとしたものの、現在こうなっていることをみると、あれも結局のところ無駄な抵抗というやつにしかならなかったのだろう。


口先や心内ではいくらでもあの男を罵ることだってできる。だけれど、厄介なのはおれ自身、そんなことを全然、少しも、これっぽっちも思っちゃいないということだ。
どれだけ条件をつけても、どれだけ言い訳をしたところで、余計なもの全部取り払ってみれば「あいつが好き」ということしか残りはしないのだから。

この先、この想いをあいつに打ち明けることだけは叶わないだろうが、とりあえずあの男が心から好きだといえる相手が現れるまでは、あいつの傍にいられることを喜べばいい。
「俺はいい親友を持って本当に幸せだ」というあいつの口ぐせは、おれに与えられる最高の賛辞なんだから。だから。だから、本当にあいつが好きだというなら、おれは笑顔で「おめでとう。やったな」と言ってやろうと・・・言ってやれると思っている。

ただ、そのあとも平気な顔して一緒にいられるなんて思ってはいなかったけれど。


「ちくしょうッ・・・」


自分が不幸だとは思わない。神を恨んだこともない。
だっておれは、そんな自分の厄介で卑怯な想いを持て余していたにもかかわらず、あの男から離れようとしなかったのだから。
大学進学のときだって、あれは機会が来るのを待っていた―――いや、本当は待ってなんか、ない。本当は嫌だった。嫌で嫌で、卒業が近づくたび、夜になると二段ベッドの下にいる男のことを考えて声を殺して、泣いた。

おれは不幸じゃない。不幸だ幸福だと考えることすらおこがましいように思えた。
だって、おれは渋沢の人生のうち、もっとも大事な10年間を親友面して潰していた、最低最悪の汚くて、醜い、外道なんだから。


・・・机に叩きつけた拳が、ひりひりとしびれていた。けれども痛いとは少しも思わなかった。
それよりもずっと、心の中のほうが痛かったから。痛くて苦しくて、息をするのも難しいほど。



この地獄のような日常は、明確なエックスデーが定まらない代わりに、漠然とした終わりのヴィジョンが見えていて、それは確かに日々、俺を追い詰める。


辛いとき、いつも黙っておれの頭を撫でたあの大きな掌が。
仕方ないなと微苦笑して、ほころぶあの優しい顔が。

』とおれの名を呼ぶあのやわらかくも甘い声が。

おれじゃない誰かのものになる、その日が。

少しずつ、近づいている。




 




060830